まぜるな!キケン!!速報

韓国、中国の危険なニュースのまとめ。 「マゼルナ、キケン」

    タグ:高宗

    1: まぜるな!キケン!! 2021/04/04(日) 14:48:54.56 ID:CAP_USER
     1885年、英国海軍が突然、巨文島を占領した。教科書で教えない、朝鮮王朝敗亡の発端となった事件だ。当時、中国と日本は共に強力なロシアの南進を大きな脅威と見て、戦々恐々としていた時期だった。清は黄遵憲の「朝鮮策略」で見るように、ロシアの南進を防ぐため属邦の朝鮮が日本・米国と関係を強化するようにし、ドイツ人メレンドルフを朝鮮に送って外交の全権を掌握した。ところがメレンドルフは、自分を雇った清を裏切り、祖国ドイツの利益を追求した。宿敵ロシアが欧州よりもアジアに力を注ぐようにしようと企んだ。

     メレンドルフは高宗と王后閔(びん)氏に、中国と日本が恐れるロシアと手を組むのが朝鮮の生きる道だと知らせ、釣られた高宗は朝鮮をロシアが保護してくれる条件としてロシアのあれほど望んでいた不凍港を提供するという、朝ロ密約を受け入れた。この密約を知った英国は、ロシア艦隊が欲しがっている巨文島を先制占領した。当時、覇権国の英国は、海を目指す新興大国ロシアの南下を徹底して封鎖し、ロシアと100年にわたる覇権競争を繰り広げていた。英国に毎回封鎖されてきたロシアは、バルカン半島、アフガニスタン、インドを経た東進の果てに行き着いた韓半島で英国と衝突した。英国の力に驚いたロシアは、朝鮮から退いた。しかし10年後、驚くべきことが起きた。朝鮮国王自ら、自国の地でロシア公館へ亡命するという、前代未聞の事件が起きた。「俄館播遷(はせん)」だ。ロシアにとっては、韓半島が「棚ぼた」のように転がり込んできたというわけだ。

     朝鮮は覇権国である英国の逆鱗(げきりん)に触れた。朝鮮は大国に振り回され、地政学的大勢も読み取れず、脅威の本質を忘却した。わずか10年前の巨文島事件の経験から、いかなる教訓も得ることができなかった。域内諸国がロシアの脅威に対処しようとしていたが、朝鮮は正反対の方向へと動いた。巨文島事件当時、英国はロシアの南下を防ぐことに朝鮮が協力するのであれば積極的に支援できることを公式に伝えていたが、朝鮮は宗主国が清であることを挙げ、交渉する権限がないと言った。ロシアの脅威に対応する連帯に賛同していたら、少なくとも日本の植民地に転落することはなかったのではないだろうか? 逆に日本は、国際力学関係と地政学的大勢を見つつロシアの脅威を把握し、徹底して英国側に付いた。英日の同盟は、日本にとって日露戦争の勝利と朝鮮を植民地として得る絶好の機会となった。

     歴史は繰り返す。中国がロシアに代わる大陸の新興大国として登場し、覇権の挑戦状を突き付けている。中国は米国の包囲網を破り、太平洋に進出しようと考えている。中国は入念に、韓国を中国の一部にする作業を進めている。高句麗を筆頭に韓半島諸国を中国の地方政権と見なし、韓国史を中国の歴史にすり替え、韓服からキムチに至るまで中国文化としている。外交の儀典においても、韓国を香港やマカオと同じような待遇にしている。かつての伝統的な宗主国と属邦の関係を復元しようとしているのではないか、という思いを抱くほどだ。中国が地域の覇権を持つようになる日、韓国の立場はどうなるのだろうか?

    ※続きは元ソースで御覧ください

    Yahoo!Japanニュース/朝鮮日報日本語版  4/4(日) 8:01配信
    https://news.yahoo.co.jp/articles/ad01088d731a9317b147080b9d21086c8061746a

    引用元: ・【朝鮮日報】高宗播遷の道を再びたどるのか[04/04] [Ikh★]

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    1: ダーティプア ★@\(^o^)/ 2015/03/01(日) 12:34:07.65 ID:???.net
    徳寿宮美術館の設計図全体を初めて確認…工事の全体像が明らかに
    宮殿を公園化・戯画化して、高宗の痕跡を消そうとしたもよう

    1930年代に日本が徳寿宮美術館を作る際、高宗の長寿を祈願した亀の像を撤去して急きょオットセイ像に替えたプロセスが、初めて確認
    された。国立文化財研究所(姜舜馨〈カン・スンヒョン〉所長)は26日「静岡県浜松市の市立中央図書館で徳寿宮美術館の設計図面217枚を
    発見した。韓国国内にあった図面429枚と合わせ、設計図全体が初めて確認された」と発表した。1936年から38年にかけて徳寿宮石造殿
    に付設された徳寿宮美術館(現在の国立現代美術館徳寿宮館)の工事の全体像が、初めて明らかになったのだ。同研究所は最近、この
    設計図を全数調査して研究結果を整理した報告書「徳寿宮美術館設計図」を発行した。

    この設計図によると、最初に美術館を設計した時点では石造殿前の亀の像が残っていたが、造園計画が突然修正され、噴水台を作って
    オットセイ像を置いたことが明らかになった。今回研究を行った金鍾憲(キム・ジョンホン)培材大学教授は「最初の配置図では、地面より
    2.8メートル高いハス池と、その中にあった亀の像を考慮して美術館の配置がなされていたが、その後作られた『徳寿宮庭園配置図』では、
    池の底を地面より低くしたハス池を作り、中央部に噴水台を置いた」と語った。

    亀の像は、中国では皇帝を、韓国では長寿を象徴する。金教授は「結局、現在のような状態は、徳寿宮美術館が完工した後の1938年に
    突然、何らかの意図によって変更されたもの。日本は、高宗の長寿を祈願した亀の像を撤去し、徳寿宮を公園化・戯画化することで、高宗
    の痕跡を消そうとしたものとみられる」と語った。現在石造殿の前には、噴水台の前後左右に、口から水を出しているオットセイの座像が
    4体ある。これまでは、このオットセイ像について、東京美術学校の津田信夫(しのぶ)がデザインしたものを大阪の鋳造所で作り、1940年
    に設置したという事実だけが知られていた。

    徳寿宮美術館は、1936年から38年にかけて新築された古典主義の建築物で、東京の中村与資平建築事務所が設計した。今回発見された
    資料は、図面計646枚、図書計25件からなる。韓国の国立古宮博物館には、光復(日本の植民地支配からの解放)後に旧皇室財産総局を
    経て伝わった図面429枚があり、日本には図面217枚と図書25件が所蔵されていることが分かった。図面は、中村与資平建築事務所で作った
    設計図の原図と、これを複製した青写真、施工現場で発生した修正事項を記録した訂正図面、細部の施工のため現場で作った原寸大の
    詳細図面(原寸図)など、全てを網羅していた。構造計算書、見積書、予算内訳をはじめ、工事現場と設計事務所がやりとりした電報・はがき
    ・手紙まで全て残っていた。

    同研究所側は「徳寿宮美術館の設計から、入札、完工に至るまで、全ての過程が完全に残っていることを確認した。近代期に一つの建物
    が建てられるまでの全過程を知ることができる初のケースであり、貴重なものだ」と語った。基礎図面から、鉄筋コンクリート工事、石工事、
    電気工事、家具工事に至るまで、全工程をカバーする図面が残っており、こんにち近代建築物を復元する上で必要な技術的資料を構築
    できるようになったわけだ。金鍾憲教授は「石造殿を昔の通りに復元できるので、今からでも、オットセイ像を撤去して亀の像を復元すべき」
    と主張した。

    許允僖(ホ・ユンヒ)記者

    ソース:朝鮮日報 2015/03/01 06:10
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/02/28/2015022800622.html
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    ▲左は、1936年6月に作られた最初の徳寿宮配置図。丸い点線で表示した部分が亀の像。その後作られた「徳寿宮庭園配置図」
    (右側。1936-38)では亀が撤去されており、提案計画が変わっている。噴水台が設置され、後にオットセイ像が置かれた。
    /写真提供=国立文化財研究所

    引用元: ・【韓国】徳寿宮の「亀の像」、日本が撤去した経緯が判明…宮殿を公園化・戯画化して、高宗の痕跡を消そうとしたもよう[03/01]

    【いつもの通り妄想… 【韓国】徳寿宮の「亀の像」、日本が撤去した経緯が判明…宮殿を公園化・戯画化して、高宗の痕跡を消そうとしたもよう[03/01]】の続きを読む

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