まぜるな!キケン!!速報

韓国、中国の危険なニュースのまとめ。 「マゼルナ、キケン」

    タグ:明仁

    1: 蚯蚓φ ★ 2019/01/31(木) 18:12:04.70 ID:CAP_USER
    14才で日本軍性奴隷に引きずられて行ってあらゆる虐待にあったキム・ボクトン、ハルモニが去る28日亡くなられた。映画「アイ・キャン・スピーク(I can speek)」の実際の主人公だったハルモニは日本の残虐ぶりを知らせるために最後の生を燃やされた。彼女が死に至って臨終の時に言ったお言葉も「怒り」ということだった。日本が韓国民族だけでなくアジアの弱小国家にした経済的収奪と人権搾取そして植民地支配に対する謝罪がなかったためだ。本当に怒るべきことだ。

    なぜ日本はこのように私たちに対し敵対的なのだろうか?日本の私たち民族に対する植民支配は世界史に探せない特別なものであった。19世紀から始まった帝国主義列強がアジアやアフリカ一帯に進出して植民地にした時、日本の朝鮮支配のようなケースは一切なかった。

    通常、植民支配は該当国家の外交権と軍隊統帥権者を奪い、行政権はそのまま置く場合が大部分だった。植民支配の目的自体が経済的収奪のためであり、あえて行政権まで奪う理由はなかった。植民支配の理論的根拠はマキャベリの「君主論」であるが、君主論にも植民地国家の行政権を奪うなとした。

    日本もやはり台湾を植民支配しながら外交権と軍事権を奪い、行政権は台湾人に許容した。そのため台湾には日本の総督府が存在しなかった。ところが韓半島の植民支配は徹底して全てのものを奪った。1905年外交権を奪い、1907年、軍隊を解散させて、ついに1910年に行政権まで奪って朝鮮総督府を置いた。軍隊、司法、行政全てを掌握した日本は韓半島の経済的収奪だけでなく最初から私たち民族を地球上からなくそうとする政策を推進した。

    朝鮮人に朝鮮の言葉を使わないようにして、日本と朝鮮が一つという内鮮一体思想を注入した。この政策は教育全般で推進され、実際、相当数の幼い学生たちに注入され自分が朝鮮人なのか日本人なのか識別できない場合もあった。それなら日本人たちはなぜこのように私たちに対してだけ他の定規を持って苛酷に植民支配をして、今でも自分たちがした事に謝らないだろうか?

    筆者は長い間この問題について深く悩んできた。そうするうちに一つの糸口を見つけた。それはまさに今回、引退する明仁日王の発言だった。明仁日王は2001年12月、誕生日の記者会見で「私個人としては桓武天皇(日王)の生母が百済武寧(ムリョン)王の子孫だと『続日本記』に書かれており、韓国との縁を感じる」と話した。続日本記には793年当時、桓武日王が出した歴史書で桓武日王の母が百済武寧王の直系子孫であると書かれている。簡単に言えば日本王室が百済武寧王の子孫というものだ。

    明仁の告白で日本国民は衝撃を受けた。自分たちが慕う国王が百済の後えいという事実を受け入れなかった。しかし、これは明白な事実だ。実際に日本王室は百済王室と深い関係がある。百済の始祖王温祚の母の召西奴(ソソノ)が日本に渡って建てた国がまさに「倭国」だ。私たちは長い間、日本人たちをののしる時、「倭奴(ウェノム)」といって侮辱し、「倭(ウェ)」という言葉が非常に悪い意味と認識されているが、実際、「倭」の意味は「優しい」、「敬う」という意味だ。換言すれば百済を敬う国という意味だ。

    日本という国名が出てきたのは660年、羅唐聨合軍によって百済が滅亡して独自の国家体制を整えるため、「日が昇る根本の国」という意味の日本と付けた。だから日本は永く百済王室の分国であったのだ。このような歴史性を持っているので日本はこのような韓日関係を完全に消すために韓半島に対する世界史に類例がない植民地政策を行ったのだ。そして今も一切の謝罪と反省をしないでいる。真に嘆かざるをえない。

    最近、日本の哨戒機が韓半島にいつも出没して緊張関係を作り、安倍総理はずっと極右的発言をして第二次世界大戦の戦犯国だった過去の日本に戻ろうとしている。国連指導の下に作られた日本の平和憲法はもはや紙切れ同然だ。このような日本とどの国が同盟国になろうとするだろうか?もはや日本は真に我が国と平和の連帯を望むなら、自らの誤りを一つ一つ公開し、キム・ボクトンハルモニの霊前に頭を下げて謝罪しなければならない。

    キム・ジュンヒョク韓神(ハンシン)大学チョンジョ教養大学教授
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    ソース:中部日報(韓国語) [キム・ジュンヒョクの歴史と今日]明仁日王の告白と韓日関係
    http://www.joongboo.com/news/articleView.html?idxno=1323881

    引用元: ・【韓国】 明仁日王の告白と韓日関係~日本は百済王室の分国であった過去を消すために植民地政策を行った/韓神大教授[01/30]

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    1: 蚯蚓φ ★@\(^o^)/ 2015/07/12(日) 21:52:23.67 ID:???.net
    no title

    ▲パク・チェヨン忠南道歴史文化研究院責任研究員が去る3日、忠南公州の武寧王陵模型展示
    館で築造方法を説明している。

    (前略)アキヒト(明仁)日王は2001年12月23日、68才の誕生日の記者会見で「私は桓武天皇(50
    代・737~806)の母が武寧王の子孫だと記録されて韓国と縁を感じている」と爆弾発言をした。日
    本古代史記録の‘続日本紀’に書かれた記録を引用したわけだが、日王自らこれを認めた破格の
    発言だった。

    3年後の2004年8月3日にはアキヒトの5親等堂叔で日本王族のアサカノ・マサヒコが親戚と共
    に武寧王陵を参拝した。世論を意識した非公式参拝だったが、日本王族の武寧王に対する関心
    を見せてもらうに充分だった。

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    ▲忠南(チュンナム)扶余(プヨ)にある定林寺(チョンニムサ)跡。1塔1金堂様式で日本の多くの
    過去の寺院がこれをまねて作られた。

    武寧王は日本で生まれた。百済、漢城(ソウル)時代最後の王、蓋歯王(ケロワン)が高句麗を牽制
    するために外と交流を深めようと461年4月、弟・昆支を日本に送り、妊娠していた自分の夫人を
    一緒に送った。夫人はその年6月、北九州の各羅嶋(かからのしま)で息子を産んだ。この子供が
    25代武寧王だ。

    アキヒトの先祖の桓武天皇の父、光仁天皇の婦人が武寧王の10代の子孫だ(訳注:韓国の記事
    では古代の天皇は「天皇」、近現代の天皇は「日王」と使い分けている)。桓武天皇は母が亡くなる
    とすぐに皇太夫人と追叙して手厚く法事を行った。

    この日、現場取材に同行したパク・チェヨン(43)忠南道歴史文化研究院責任研究員は「百済中興
    を導いた武寧王の時、日本と交流が非常に活発だった」として「この過程で百済の数多くの先進文
    明が日本に伝授された」と話した。
    (中略:古墳の説明)

    扶余邑にある定林寺(チョンニムサ)跡は学校運動場ほどの大きさであり、池の上の橋を渡れば
    ‘定林寺跡5重の石灯’が立っている。パク研究員は「石で作った塔だが屋根軒がそびえて、4段
    の石積みなど木造様式をそのまま踏襲したもので、塔が木から石に変わった初期形態」と知らせ
    た。彼は「日本はこの様式を受け入れて木塔を作った」と付け加えた。石塔の後に仏像をまつる金
    堂がある。3階建ての金堂は芝生で跡を表示した。その後に韓国式家屋形式の講堂建物がある。

    パク研究員は「百済伽藍(寺)の伝統様式は南北一直線上の1塔1金堂で1塔3金堂の新羅や高
    句麗と違う。百済様式が大阪の四天王寺や奈良の法隆寺などに適用された」と話した。

    武寧王が熊津(ウンジン、公州)時代を導いたとすれば聖王(訳注:武寧王の息子)は扶余時代を
    開く。聖王は怒唎斯致契を送って日本に仏像と経典など仏教を伝えた。百済技術者らは日本に多
    くの寺を建て、飛鳥文化の花を咲かせた。製錬技術、馬飼育方法、養蚕と衣服製作技術も日本に
    伝授され、その跡が京都、大阪、奈良などに残っている。

    先進文明の恩恵を受けた日本は百済が戦争した時、軍を送って助けた。百済が滅亡した後は、
    遊民4000人余りが日本に亡命して様々な里を作って暮らし、そこで官位もたくさん得た。パク研究
    員は「百済と日本は兄弟のように互いに助けながら過ごした」として「この頃、ことごとにふらつく韓
    日関係を見れば本当に残念だ」といった。

    イ・チョンヨル記者

    ソース:ソウル新聞(韓国語) [新しい50年を開こう]百済、日と交流最も活発…明仁「私は武寧王の子孫」
    http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20150713007005

    引用元: ・【日韓歴史】 日本との交流が最も活発だった百済、多くの先進文明を日本に伝授…明仁日王「私は武寧王の子孫」[07/12]

    【エベンキ無関係だろが 【日韓歴史】 日本との交流が最も活発だった百済、多くの先進文明を日本に伝授…明仁日王「私は武寧王の子孫」[07/12]】の続きを読む

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