まぜるな!キケン!!速報

韓国、中国の危険なニュースのまとめ。 「マゼルナ、キケン」

    タグ:孫基禎

    1: まぜるな!キケン!! 2021/07/12(月) 09:16:58.86 ID:CAP_USER
    (写真)
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    ▲ 1936年8月14日付の東亜日報に掲載された百補丸の広告。
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    日帝強占期に『百補丸(ペクボファン)』という薬、最近の用語で言えば健康補助剤があった。全身衰弱、精力不足、腰痛、手足の冷え症、記憶力減退、消化不良、貧血などに効能があると宣伝した。 『この効力を未だに知らず、疑って服用していない人は、健康に運のない不幸な人だ』という半脅迫めいたフレーズを載せ、貴族や両班、大臣、朝野名士(朝廷と民間の名士)が百補丸を愛用していると記載した。当時はこのように、どのような薬でも万能の新薬として誇張しても制裁する術はなかった。。

    1936年のベルリンオリンピックのマラソンで孫基禎(そん・きてい)が優勝すると、すぐさま平和堂(ピョンファダン)は百補丸の広告に活用した。広告には、『孫基禎万歳』というフレーズと孫基禎が走っている写真が目につく。『百補丸はオリンピック選手も既に服用している』、『独逸(ドイツ)伯林(ベルリン)オリンピックの選手にまで愛用された補薬は実際に百補丸だけで、百補丸は補血強壮剤でもちろん世界一です』と記載し、孫基禎の優勝に関連づけた。彼だけではなく、『百補丸、健康剤中、品眞效大、呂運亨(ヨ・ウンヒョン)』と記載した、当時、朝鮮中央日報の社長だった呂運亨の親筆も広告に盛り込んだ。呂運亨が朝鮮中央日報の運動部を通じ、ベルリンオリンピックの選手たちに激励の手紙とともに百補丸11箱を送ったとも記載した。当時の大物である呂運亨がなじぇ薬の広告に動員されたのかは知る由もない。

    平和あたりは1930年頃に創業した後、1941年に日帝の企業整備令によって閉鎖となった。 元々は印刷所だったのだが、製薬会社の広告を印刷する薬品部を新設して百補丸を製造、販売するようになったという。『胎養調経丸』などを製造、販売していた有名製薬会社の和平堂は、平和堂が似たような名前で開業するとすぐさま訴訟を起こした。平和堂は有名人を広告に活用するとともに、当時としては破格的な景品イベントで消費者の注目を集めた。特等景品は当時としては珍しい足踏み式ミシン、1等は純金の時計バンド、2等は雄牛一匹か3段螺鈿漆、18金腕時計など、3等は自転車か電気時計など、4等は置き時計など、5等は日傘か万年筆などを掲げた。そして5万人に贈る景品総額は約8,898ウォンと朝鮮初の大景品イベントを誇示したが、1930年代は米1カマ(俵擬き)の価格が10ウォン程度だったため、米900カマ(現在の価値で約2億ウォン)に相当する金額である。景品の広告には、『百補丸の効力が天下一というのは三尺童子(幼児)でも知っていて、西洋からも日々注文が殺到している』という誇張したフレーズが掲載された。 当時、近代的な製薬会社を目指していた柳韓洋行(ユハンヤンヘン)は、平和堂のこのような誇大広告を非難する広告を掲載した。

    ソース:ソウル新聞(韓国語)
    https://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20210712030002&

    引用元: ・【韓国】<近代広告チラ見>『孫基禎が服用してマラソンで優勝した薬』[07/12] [ハニィみるく(17歳)★]

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    1: ロンメル銭湯兵 ★@\(^o^)/ 2015/07/14(火) 20:45:51.75 ID:???.net
     植民地時代の1936年、ドイツ・ベルリンのある豆腐工場。東洋人の男性およそ10人が、丼や真ちゅうの器に
    キムチと豆腐を盛って「祝勝会」を開いた。祝勝会ではあったが、雰囲気は厳粛だった。壁には太極旗(韓国の国旗)が
    掲げられていた。

     ベルリン五輪で金メダルと銅メダルを取った孫基禎(ソン・ギジョン)・南昇竜(ナム・スンリョン)選手の一行だった。
    二人は、五輪で優勝した後、日本選手団が開いた祝賀パーティーには出席せず、朝鮮人同士でひそかに祝勝会を開いた。
    祝勝会を準備した人物は、ベルリンで豆腐工場を営み、独立運動を後押ししていた安奉根(アン・ボングン)だった。
    安奉根は、安重根(アン・ジュングン)のいとこに当たり、ベルリンに留学後、ドイツ人と結婚した。孫基禎・南昇竜選手は、
    その時初めて太極旗を目にし、当時の感動を自叙伝にこう記した。

     「全身に熱い電流が流れたかのように、私は体をわなわなと震わせた。失われた祖国、死した祖国の顔に接しているかのような
    気分だった。弾圧と監視の目を避けて太極旗が生きているように、朝鮮民族も生きているという確信が心をときめかせた」

     孫基禎選手の孫に当たるイ・ジュンスンさん(孫基禎記念財団事務総長)は13日「最近、祖父が日本に秘密で
    朝鮮人同士祝勝会を開いた、その豆腐工場の住所を突き止めた。7月末に『ユーラシア親善特急』に乗ってベルリンを訪問し、
    直接行ってみる」と語った。現在その建物は、旧西ベルリンの中心街に近いカントシュトラッセにある6階建ての住・商複合マンションで、
    イラン亡命者協会のオフィスがあるという。

     イ事務総長は14日、韓国外交部(省に相当)・韓国鉄道公社(KORAIL)が手掛ける「ユーラシア親善特急」に乗って
    ベルリンに向かう。7月14日から8月2日まで、シベリア横断鉄道に乗ってロシアのウラジオストクからドイツのベルリンに向かうという
    スケジュールだ。孫基禎選手も、ベルリン五輪に出場するため、この列車に乗った。当時は、韓半島(朝鮮半島)と欧州が
    国際鉄道で結ばれており、京城(現在のソウル)からベルリンまで直接行くことができた。

     1936年6月4日に京城を出発した列車は、孫基禎選手の故郷・新義州と満州、シベリア、モスクワ、ワルシャワを経て、
    17日にベルリンに到着した。実に13日を要したわけだ。

     孫基禎選手が乗った列車は、旅客列車ではなく、軍用装備を輸送する貨物列車だった。孫基禎選手はこの列車で、
    朝鮮人が買ってくれたニンニクのチャンアチ(漬け物)やチャンジョリム(牛肉のしょうゆ煮)を食べて耐えた。

     孫基禎選手は、雑誌「三千里」に寄稿した記事で、この旅について「行っても行っても広大なシベリアは、人が住んでいない
    辺境のような広漠とした平野があるだけで、朝鮮の京釜線や京義線のような山は、見ようとしても見ることはできなかった」
    「鉄道は朝鮮のものより随分広い線路で、規模も大きかったが、時間をしっかり守ってくれないのにはあきれた。おかげで、
    列車が30分停車するたびに、プラットホームに降りて走る練習ができた」と書いた。このため、ソ連では日本のスパイと誤認され、
    取り調べを受けたこともあるという。

     しかし、ベルリン駅に到着した孫基禎選手は、歓待を受けることはなかった。出迎えにきた日本大使館の職員は
    「なぜマラソンに朝鮮人が2人も入っているのか」と不満をぶちまけたという。孫基禎選手は「半月近く列車に揺られて
    到着した先で、こんなとんでもないあいさつをされて、どっと涙が出てきた」と記した。

     ベルリンで孫基禎選手は、試合当日のほか日章旗が描かれたユニホームを着ることはなかった、とイ事務総長は語った。
    「日章旗抹消事件はとにかくよく知られているのに、現地ベルリンでの祖父の行動は埋もれており、残念」

     イ事務総長は今回、ドイツのオリンピック委員会に手紙を送り、ベルリンのメーンスタジアムにある孫基禎選手の銘に
    韓国国籍を併記してほしいと要請する計画だ。

    崔鍾錫(チェ・ジョンソク)記者

    朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 2015/07/14 10:58
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/07/14/2015071401279.html
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/07/14/2015071401279_2.html

    引用元: ・【朝鮮日報】1936ベルリン五輪金の孫基禎、朝鮮人同士で祝勝会[7/14]

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