1: 蚯蚓φ ★ 2017/11/29(水) 13:58:17.20 ID:CAP_USER
今月20日はソウル西大門区(ソデムング)にある独立門をたてて120周年をむかえる日でした。独立門は我が国初の洋式建築物で、我が国の自主独立精神を知らせようと作られました。驚くべきことに日帝強制占領期の朝鮮総督府は多額のお金を入れて独立門保守工事を行い、文化財指定した。朝鮮を植民地とした日帝がどうしてこの様なことを行ったのでしょうか?

◇中国使節が留まった英恩問を崩す

「君主が皇太子と百官を率いて慕華館に進んで勅書を迎えた。」「慕華館に挙動して使節を送った。」世宗(セジョン)実録「に記録された慕華館の話です。これと似た内容が「世宗実録」だけでなく最後の朝鮮王朝実録の「高宗(コジョン)実録」までほとんどすべての実録に漏れずに出てきます。「慕華館」という所で朝鮮王が中国、すなわち明国や清国皇帝が送った使節を迎えたりその使節のために祭りを施した後、中国に送ったということです。

このように「慕華館」は朝鮮が中国使節を出迎えようと作った建物で、中国使節が留まった宿舎だと言えます。朝鮮第3代太宗の時の1407年、高麗の都の地、開京に外国の様々な使節を迎えようと作った迎賓館をまねてソウルの四大門の一つ西大門(敦義門)に作りました。慕華館の前に赤い色を塗った木門の紅箭門をたて、第11代中宗の時、青瓦をのせて建て直し、明国使節が要求した通り「迎恩門」と名づけました。慕華館の「慕華」は中国を慕うという意味で、迎恩門の「迎恩」は恩恵を施した使節を迎えるという意味です。

◇独立を象徴する記念物になる

1895年、朝鮮の支配権を置いて清国と日本が「清日戦争」を起こします。この戦争で清国は敗れ、朝鮮はこれ以上清国に仕える国ではなく自主独立国家であることを広く知らしめなければならないと考えました。このために事大主義の象徴だった迎恩門と慕華館を壊して自主独立を象徴する記念物をたてようという運動が広がりました。米国に亡命して帰国し1896年、我が国初の民営新聞「独立新聞」を発行したソ・ジェピルを中心に開化派と朝鮮政府官僚が参加して独立門建設推進委員会を作りました。これを土台に「独立協会」という団体ができ、これらが迎恩門を壊してその場に独立門をたてる募金運動を行ったそうです。

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独立門の形はフランスの凱旋門をまねてソ・ジェピルがスケッチしました。朝鮮王室も多額のお金を寄付しました。1896年11月21日、始まった独立門設立工事は翌年の1897年11月20日に終わったそうです。慕華館は独立協会の集会場である「独立館」に使うことにしました。

独立門が完工する一カ月以上前の1897年10月、高宗が独立協会の支援に力づけられて「大韓帝国」を宣言します。これで独立門は大韓帝国の自主独立を象徴する記念物になったそうです。独立門に大韓帝国を象徴する太極旗と大韓帝国皇室を象徴する李花紋を刻んだのもそのためです。

1910年我が国が国権を完全に奪われて、日帝は独立門を「朝鮮が清国の属国から脱して日本の影響下に入った」という意味に利用しようとしました。それで朝鮮総督府は独立門保守工事を行い文化財指定して管理しました。また、イ・ワンヨンなど親日派が当時の独立門をたてるのに重要な役割を果たした独立協会会員であった点を強調して韓国人の反日感情を和らげようとしたそうです。

独立門は日帝強制占領期間が長くなり、日帝からの独立を象徴する記念物に意味が変わって行きました。1919年3・1運動時は太極旗の正確な形を知らなかった多くの学生と市民が独立門に彫られた太極旗を見て描き万歳運動を行いました。

その後、独立門は私たち民族の胸の中に自主独立の象徴物として今も残っているとのことです。
(後略)

ソース:ニュースティーチャー(韓国語) [ニュースの中の韓国史]独立門、事大主義象徴壊して仏凱旋門まねて作りましたよ
http://newsteacher.chosun.com/site/data/html_dir/2017/11/27/2017112700361.html

引用元: ・【韓国】 事大主義の迎恩門を壊しフランスの凱旋門をまねて建てた独立門、日帝時代を経て抗日独立の象徴へ[11/28]

【【捏造教育の賜物だな 】 事大主義の迎恩門を壊しフランスの凱旋門をまねて建てた独立門、日帝時代を経て抗日独立の象徴へ【ニュースティーチャー(韓国語)】】の続きを読む