1: まぜるな!キケン!! 2019/04/06(土) 16:25:34.47 ID:CAP_USER
▲チョン・サムジョ詩人
街路樹の桜の花がぱっと開き、通りごとに大騷ぎになる。見事な花祭りだ。この花祭りに数百回は参加すべきだろうと誓うかのように人々は花の下でそわそわする。美しい。豊かだ。
数十万株にもなるという鎮海だけでなく、私たちの私的推薦も桜の花が多い。私的に推薦する桜の花の元祖格はどうしても泗川里(サチョンリ)城の桜だ。この桜の下で一日を飲酒・歌舞で楽しむ人々をすぐに思い出せるほど私たち地元の人々は泗川里城の桜が好きだ。
今年も泗川里城一帯では桜祭りが開かれるという。この桜の花の豪華さと人々にあたえる喜びをしばらく後回しにしておいて、私たちの故郷、泗川里城に桜がどうして植えられることになったのかを考えてみれば、一方で苦々しい感じがするのを禁じ得ない。
泗川里城に千本余りの桜を植えたのは日本人だという。その人は壬辰年倭乱後の丁酉災乱(慶長の乱)の時の1598年にこの泗川里城を防御して明国軍が主軸だった朝鮮と明国の朝明聨合軍をはね除け戦功をおさめた日人の子孫という。
時は日帝強制占領期初期の1918年だと記録されている。1597年末頃、日人らは彼らの退路を心配してこの泗川里城一帯に城を築いて駐留することにしたという。恐らく周辺の多くの私たち国民が労役に動員され、彼らが計画した城なので当然、日本式城の倭城だった。この倭城の泗川里城を陥落するため、朝明聨合軍は倭軍の4倍ほどに当たる三万人以上だったが、不幸にも戦闘中、火砲の誤射による弾薬の爆発で混乱に陥って莫大な戦死者を残して敗退したという。
この時死んだ朝明聨合軍の数が私たちの記録では八千人、倭人の記録では三万人という。この戦闘は壬辰倭乱の中で倭軍がおさめた代表的勝利とされる。そのせいか、過去の一時は日本の学生たちが我が国に修学旅でくる時、この泗川里城を訪れることがたびたびあった。泗川里城を復元しなければならないという理由の一つに日本観光客誘致の助けになるという人もいた。
その日本学生や日本人観光客が何をしに泗川里城を訪れたのだろうか。彼らが勝った戦場を探して彼らの愛国心を鼓吹しようという意図ではなかったか。
より一層理解できないことはこの泗川里城を復元すると言いながら倭城を復元したことだ。歴史の記録を調べれば、この泗川里城にはすでに高麗の時やそれ以前に築造した私たちの方法の土城があったという。その土城を基礎にして倭軍らが倭城を築いたのだ。
その倭城により数多くの怨みの霊が飛び交うその場に、その怨みの霊を慰められなくとも莫大な税金を投じて、何故、倭城を築いた意図は何か。今も倭城の跡を消して派手でないかもしれないが、本来の土城形態を補完する方案を講じていかなければならないだろう。
桜の花が日本人のどの様な精神を代弁するとしても、あえて遠ざける理由はない。それは日本人の事情であって、私たちはその桜の花を花以外の目的で使おうとする不純な意図にまきこまれてはならないという考えを泗川里城の悲劇と共に思い出してみる。
記者注:泗川の戦い(しせんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦い(Wikipedia)。
ソース:ニュース泗川(韓国語) [イニャンマルリ]桜の花を見て泗川里城を考えるということ
http://www.news4000.com/news/articleView.html?idxno=31459
引用元: ・【韓国】 桜の花を見て思う壬辰倭乱~勝った倭人の子孫が泗川里城に桜を植えたワケ[04/04]
【とても正常な精神の持ち主だとは思えない【韓国】 桜の花を見て思う壬辰倭乱~勝った倭人の子孫が泗川里城に桜を植えたワケ[04/04] 】の続きを読む