1: 蚯蚓φ ★@\(^o^)/ 2015/07/12(日) 21:52:23.67 ID:???.net
▲パク・チェヨン忠南道歴史文化研究院責任研究員が去る3日、忠南公州の武寧王陵模型展示
館で築造方法を説明している。
(前略)アキヒト(明仁)日王は2001年12月23日、68才の誕生日の記者会見で「私は桓武天皇(50
代・737~806)の母が武寧王の子孫だと記録されて韓国と縁を感じている」と爆弾発言をした。日
本古代史記録の‘続日本紀’に書かれた記録を引用したわけだが、日王自らこれを認めた破格の
発言だった。
3年後の2004年8月3日にはアキヒトの5親等堂叔で日本王族のアサカノ・マサヒコが親戚と共
に武寧王陵を参拝した。世論を意識した非公式参拝だったが、日本王族の武寧王に対する関心
を見せてもらうに充分だった。
▲忠南(チュンナム)扶余(プヨ)にある定林寺(チョンニムサ)跡。1塔1金堂様式で日本の多くの
過去の寺院がこれをまねて作られた。
武寧王は日本で生まれた。百済、漢城(ソウル)時代最後の王、蓋歯王(ケロワン)が高句麗を牽制
するために外と交流を深めようと461年4月、弟・昆支を日本に送り、妊娠していた自分の夫人を
一緒に送った。夫人はその年6月、北九州の各羅嶋(かからのしま)で息子を産んだ。この子供が
25代武寧王だ。
アキヒトの先祖の桓武天皇の父、光仁天皇の婦人が武寧王の10代の子孫だ(訳注:韓国の記事
では古代の天皇は「天皇」、近現代の天皇は「日王」と使い分けている)。桓武天皇は母が亡くなる
とすぐに皇太夫人と追叙して手厚く法事を行った。
この日、現場取材に同行したパク・チェヨン(43)忠南道歴史文化研究院責任研究員は「百済中興
を導いた武寧王の時、日本と交流が非常に活発だった」として「この過程で百済の数多くの先進文
明が日本に伝授された」と話した。
(中略:古墳の説明)
扶余邑にある定林寺(チョンニムサ)跡は学校運動場ほどの大きさであり、池の上の橋を渡れば
‘定林寺跡5重の石灯’が立っている。パク研究員は「石で作った塔だが屋根軒がそびえて、4段
の石積みなど木造様式をそのまま踏襲したもので、塔が木から石に変わった初期形態」と知らせ
た。彼は「日本はこの様式を受け入れて木塔を作った」と付け加えた。石塔の後に仏像をまつる金
堂がある。3階建ての金堂は芝生で跡を表示した。その後に韓国式家屋形式の講堂建物がある。
パク研究員は「百済伽藍(寺)の伝統様式は南北一直線上の1塔1金堂で1塔3金堂の新羅や高
句麗と違う。百済様式が大阪の四天王寺や奈良の法隆寺などに適用された」と話した。
武寧王が熊津(ウンジン、公州)時代を導いたとすれば聖王(訳注:武寧王の息子)は扶余時代を
開く。聖王は怒唎斯致契を送って日本に仏像と経典など仏教を伝えた。百済技術者らは日本に多
くの寺を建て、飛鳥文化の花を咲かせた。製錬技術、馬飼育方法、養蚕と衣服製作技術も日本に
伝授され、その跡が京都、大阪、奈良などに残っている。
先進文明の恩恵を受けた日本は百済が戦争した時、軍を送って助けた。百済が滅亡した後は、
遊民4000人余りが日本に亡命して様々な里を作って暮らし、そこで官位もたくさん得た。パク研究
員は「百済と日本は兄弟のように互いに助けながら過ごした」として「この頃、ことごとにふらつく韓
日関係を見れば本当に残念だ」といった。
イ・チョンヨル記者
ソース:ソウル新聞(韓国語) [新しい50年を開こう]百済、日と交流最も活発…明仁「私は武寧王の子孫」
http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20150713007005
引用元: ・【日韓歴史】 日本との交流が最も活発だった百済、多くの先進文明を日本に伝授…明仁日王「私は武寧王の子孫」[07/12]
【エベンキ無関係だろが 【日韓歴史】 日本との交流が最も活発だった百済、多くの先進文明を日本に伝授…明仁日王「私は武寧王の子孫」[07/12]】の続きを読む