1: ロンメル銭湯兵 ★@\(^o^)/ 2015/07/14(火) 20:45:51.75 ID:???.net
 植民地時代の1936年、ドイツ・ベルリンのある豆腐工場。東洋人の男性およそ10人が、丼や真ちゅうの器に
キムチと豆腐を盛って「祝勝会」を開いた。祝勝会ではあったが、雰囲気は厳粛だった。壁には太極旗(韓国の国旗)が
掲げられていた。

 ベルリン五輪で金メダルと銅メダルを取った孫基禎(ソン・ギジョン)・南昇竜(ナム・スンリョン)選手の一行だった。
二人は、五輪で優勝した後、日本選手団が開いた祝賀パーティーには出席せず、朝鮮人同士でひそかに祝勝会を開いた。
祝勝会を準備した人物は、ベルリンで豆腐工場を営み、独立運動を後押ししていた安奉根(アン・ボングン)だった。
安奉根は、安重根(アン・ジュングン)のいとこに当たり、ベルリンに留学後、ドイツ人と結婚した。孫基禎・南昇竜選手は、
その時初めて太極旗を目にし、当時の感動を自叙伝にこう記した。

 「全身に熱い電流が流れたかのように、私は体をわなわなと震わせた。失われた祖国、死した祖国の顔に接しているかのような
気分だった。弾圧と監視の目を避けて太極旗が生きているように、朝鮮民族も生きているという確信が心をときめかせた」

 孫基禎選手の孫に当たるイ・ジュンスンさん(孫基禎記念財団事務総長)は13日「最近、祖父が日本に秘密で
朝鮮人同士祝勝会を開いた、その豆腐工場の住所を突き止めた。7月末に『ユーラシア親善特急』に乗ってベルリンを訪問し、
直接行ってみる」と語った。現在その建物は、旧西ベルリンの中心街に近いカントシュトラッセにある6階建ての住・商複合マンションで、
イラン亡命者協会のオフィスがあるという。

 イ事務総長は14日、韓国外交部(省に相当)・韓国鉄道公社(KORAIL)が手掛ける「ユーラシア親善特急」に乗って
ベルリンに向かう。7月14日から8月2日まで、シベリア横断鉄道に乗ってロシアのウラジオストクからドイツのベルリンに向かうという
スケジュールだ。孫基禎選手も、ベルリン五輪に出場するため、この列車に乗った。当時は、韓半島(朝鮮半島)と欧州が
国際鉄道で結ばれており、京城(現在のソウル)からベルリンまで直接行くことができた。

 1936年6月4日に京城を出発した列車は、孫基禎選手の故郷・新義州と満州、シベリア、モスクワ、ワルシャワを経て、
17日にベルリンに到着した。実に13日を要したわけだ。

 孫基禎選手が乗った列車は、旅客列車ではなく、軍用装備を輸送する貨物列車だった。孫基禎選手はこの列車で、
朝鮮人が買ってくれたニンニクのチャンアチ(漬け物)やチャンジョリム(牛肉のしょうゆ煮)を食べて耐えた。

 孫基禎選手は、雑誌「三千里」に寄稿した記事で、この旅について「行っても行っても広大なシベリアは、人が住んでいない
辺境のような広漠とした平野があるだけで、朝鮮の京釜線や京義線のような山は、見ようとしても見ることはできなかった」
「鉄道は朝鮮のものより随分広い線路で、規模も大きかったが、時間をしっかり守ってくれないのにはあきれた。おかげで、
列車が30分停車するたびに、プラットホームに降りて走る練習ができた」と書いた。このため、ソ連では日本のスパイと誤認され、
取り調べを受けたこともあるという。

 しかし、ベルリン駅に到着した孫基禎選手は、歓待を受けることはなかった。出迎えにきた日本大使館の職員は
「なぜマラソンに朝鮮人が2人も入っているのか」と不満をぶちまけたという。孫基禎選手は「半月近く列車に揺られて
到着した先で、こんなとんでもないあいさつをされて、どっと涙が出てきた」と記した。

 ベルリンで孫基禎選手は、試合当日のほか日章旗が描かれたユニホームを着ることはなかった、とイ事務総長は語った。
「日章旗抹消事件はとにかくよく知られているのに、現地ベルリンでの祖父の行動は埋もれており、残念」

 イ事務総長は今回、ドイツのオリンピック委員会に手紙を送り、ベルリンのメーンスタジアムにある孫基禎選手の銘に
韓国国籍を併記してほしいと要請する計画だ。

崔鍾錫(チェ・ジョンソク)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 2015/07/14 10:58
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/07/14/2015071401279.html
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/07/14/2015071401279_2.html

引用元: ・【朝鮮日報】1936ベルリン五輪金の孫基禎、朝鮮人同士で祝勝会[7/14]

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