「私はキム・ジョンジャ(仮名)です。 今年で64歳です。
私は米軍向けの慰安婦でした。 基地村に人身売買されて、一生を米軍にあてがわれて無念に生きてきましたが、
誰も私や私の同僚たちの話を聞こうとはしませんでした。
私たちが米軍から稼いだドルで、韓国をこのように立てなおしたのに、その時は私たちに‘愛国者’だと言っていましたが、
今国家は私たちを見て見ぬフリをしています。 私の先輩姉さん(基地村の同僚)が
だんだん亡くなってくのをこれ以上黙って見てはいられません。 それで勇気を出すことにしました。
私たちは国家を相手に損害賠償請求訴訟を始めました。
私たちがなぜ国家にこのような戦いを挑むのか、私の人生を通じて説明したいと思います。」
「私は1950年1月に生まれました。
実の父は軍人でしたが、戦争の渦中に私を見に帰って来て脱走兵になって憲兵に捕まりました。
それっきり殴られて死んだという話だけを聞きました。 母は後に再婚しました。
私が12才ぐらいからか、私の義父は母の居ない時を狙って私を強奪しました。 義理の兄たちも私に手を出しました。
それを母に話すこともできずに、じっと我慢していましたが、16歳の時(1965年頃)家を出てしまいました。
私の小学校の時の友人がいました。 金を稼げる所があると言いました。
紡織工場だと言いました。 その子についてソウル駅まで汽車に乗って来ました。
ある家に入ると、家毎に‘ナムバー’が付いていました。 1号室、2号室、3号室、こんなふうに。
私は旅館だと思って眠りました。 私の友達は、翌日ちょっと行って来ると言って出て行ったきり帰って来ませんでした。
(50代くらいの)おばさんが現れました。 私について来いと言いました。 工場に連れて行くのかと思って、ついて行きました。
ところが私に‘お前の友達が借金を返さずに逃げたので、代わりにお前が返せ’と言いました。
いくらなのかは言いませんでした。友達の代わりにお金を返せば私が出て行くことができると言いました。
どのように金を稼げばいいのか尋ねました。 夜になって姉さんについて行けば分かると言いました。
後で知ったのですが、私が行ったところは坡州(パジュ)ヨンジュッコルという所でした。
米軍基地の周辺で女たちが身を売る所でした。 私の友達が借金を返せずに、私を売り払ったということでした。」
「おばさん(抱え主)は私に、クラブに出て行ってお客さん(米兵)を連れて来るように言いました。
私は3日くらいして、その抱え主の家から逃げ出しました。 ところが路地で捕ってしまいました。
‘死ぬほど’殴られました。 もう一回逃げたら島に連れて行って殺してしまうと言いました。
(抱え主が)パスを貼ってくれセコナール(鎮静剤)をくれました。 気持ち良くからと言ってくれました。
一回飲めば(中毒になり)二回飲むことになり、三回飲めば四回飲むことになります。
客を連れてこいと送り出されると、私は恐くて何も言えませんでした。 正気では恥ずかしくて客を引っ張ることなどできません。
私はその薬が何なのかも知らず、飲み続けました。」
キム氏は後になってこれが麻薬であることを知るようになるが、すでに手遅れだった。 薬を飲んでこそヒッパリ(客引き行為)に出かけられた。
キム・ジョンジャさんの人生は地獄のようだった。 普通、基地村女性たちは一晩に米軍兵を三,四人ずつ受け入れなければならないケースが普通だった。
「そうすれば、そこ(陰部)がどれほど痛むかわかりません。 ロング・ショート(性売買時間の単位)いくらしてもキリがありません。
ロングは自分の部屋で夜を明かして朝早くに出て行くもので10ドル受け取ります。
ショートは自分の部屋で30分から1時間で出て行きます。 お金は全部おばさんが持って行ってしまいます。 私は直接受け取れません。
おばさんは一ヶ月毎に計算すると言っておいて全て奪い取りました。 1~2ヶ月で借金を全て返せると思っていましたがそうは行きません。」
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17752.html
私は米軍向けの慰安婦でした。 基地村に人身売買されて、一生を米軍にあてがわれて無念に生きてきましたが、
誰も私や私の同僚たちの話を聞こうとはしませんでした。
私たちが米軍から稼いだドルで、韓国をこのように立てなおしたのに、その時は私たちに‘愛国者’だと言っていましたが、
今国家は私たちを見て見ぬフリをしています。 私の先輩姉さん(基地村の同僚)が
だんだん亡くなってくのをこれ以上黙って見てはいられません。 それで勇気を出すことにしました。
私たちは国家を相手に損害賠償請求訴訟を始めました。
私たちがなぜ国家にこのような戦いを挑むのか、私の人生を通じて説明したいと思います。」
「私は1950年1月に生まれました。
実の父は軍人でしたが、戦争の渦中に私を見に帰って来て脱走兵になって憲兵に捕まりました。
それっきり殴られて死んだという話だけを聞きました。 母は後に再婚しました。
私が12才ぐらいからか、私の義父は母の居ない時を狙って私を強奪しました。 義理の兄たちも私に手を出しました。
それを母に話すこともできずに、じっと我慢していましたが、16歳の時(1965年頃)家を出てしまいました。
私の小学校の時の友人がいました。 金を稼げる所があると言いました。
紡織工場だと言いました。 その子についてソウル駅まで汽車に乗って来ました。
ある家に入ると、家毎に‘ナムバー’が付いていました。 1号室、2号室、3号室、こんなふうに。
私は旅館だと思って眠りました。 私の友達は、翌日ちょっと行って来ると言って出て行ったきり帰って来ませんでした。
(50代くらいの)おばさんが現れました。 私について来いと言いました。 工場に連れて行くのかと思って、ついて行きました。
ところが私に‘お前の友達が借金を返さずに逃げたので、代わりにお前が返せ’と言いました。
いくらなのかは言いませんでした。友達の代わりにお金を返せば私が出て行くことができると言いました。
どのように金を稼げばいいのか尋ねました。 夜になって姉さんについて行けば分かると言いました。
後で知ったのですが、私が行ったところは坡州(パジュ)ヨンジュッコルという所でした。
米軍基地の周辺で女たちが身を売る所でした。 私の友達が借金を返せずに、私を売り払ったということでした。」
「おばさん(抱え主)は私に、クラブに出て行ってお客さん(米兵)を連れて来るように言いました。
私は3日くらいして、その抱え主の家から逃げ出しました。 ところが路地で捕ってしまいました。
‘死ぬほど’殴られました。 もう一回逃げたら島に連れて行って殺してしまうと言いました。
(抱え主が)パスを貼ってくれセコナール(鎮静剤)をくれました。 気持ち良くからと言ってくれました。
一回飲めば(中毒になり)二回飲むことになり、三回飲めば四回飲むことになります。
客を連れてこいと送り出されると、私は恐くて何も言えませんでした。 正気では恥ずかしくて客を引っ張ることなどできません。
私はその薬が何なのかも知らず、飲み続けました。」
キム氏は後になってこれが麻薬であることを知るようになるが、すでに手遅れだった。 薬を飲んでこそヒッパリ(客引き行為)に出かけられた。
キム・ジョンジャさんの人生は地獄のようだった。 普通、基地村女性たちは一晩に米軍兵を三,四人ずつ受け入れなければならないケースが普通だった。
「そうすれば、そこ(陰部)がどれほど痛むかわかりません。 ロング・ショート(性売買時間の単位)いくらしてもキリがありません。
ロングは自分の部屋で夜を明かして朝早くに出て行くもので10ドル受け取ります。
ショートは自分の部屋で30分から1時間で出て行きます。 お金は全部おばさんが持って行ってしまいます。 私は直接受け取れません。
おばさんは一ヶ月毎に計算すると言っておいて全て奪い取りました。 1~2ヶ月で借金を全て返せると思っていましたがそうは行きません。」
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17752.html
引用元: ・【韓国】米軍慰安婦「人身売買に遭い、麻薬を打たれながら米兵を受け入れた。国は『私達はドルを稼ぐ愛国者』といいつつ罪人扱い」[7/5]
【【韓国】米軍慰安婦「人身売買に遭い、麻薬を打たれながら米兵を受け入れた。国は『私達はドルを稼ぐ愛国者』といいつつ罪人扱い」[7/5]】の続きを読む