1: 蚯蚓φ ★@無断転載は禁止 2017/03/30(木) 21:51:39.32 ID:CAP_USER
「強/弱」と「善/悪」は範疇が異なる。前者は物理的概念で後者は倫理的概念だ。しかし、これらはしばしば相互結合する。「強」が「善」または「悪」と結合したり、「弱」が「善」または「悪」と結合したりする。そうして「強い善」や「強い悪」ができたり、「弱い善」や「弱い悪」ができたりする。

「強い善」が例えば、ブッダやイエスに見るような強力な宗教的、道徳的信念にともなう犠牲的実践のようなものならば、「強い悪」はヒットラーやスターリンのように強大な権力を振り回す絶対悪のようなものではないか。それに反して「弱い善」が正直で素朴な人生を表わす穏やかな道徳ならば、「弱い悪」は世俗と権力に押さえつけられながらもそれに媚びる輩の人生であろう。
(中略:悪魔は弱い存在でありうる)

私は韓国人の基本的な道徳性がまさに、このような「弱い悪」の次元にあるとみるが、本当に驚くべき点は韓国人が永く自分たちの「弱さ」を「善良さ」と一致させてきた事実だ。中国とモンゴル、日本とアメリカ帝国主義を「強い悪」に設定し、自分たちを「弱い善」に置き換えたことこそ、韓国人の最も創造的業績とまであえて私は言いたい。

これが十分に集団的な欺瞞と言わざるをえないのは、多くの韓国人が「弱さ」と「善良さ」を一致させ、「強さ」と「不道徳さ」を同一なものと考えるからだ。しかし、これは決して固定されない認知的誤りだ。韓国人が「弱い種族」であることは正しい。しかし、それが自動的に「善良な種族」であることを保障するわけではない。かえって韓国の歴史は「弱さ」が頻繁に「不道徳さ」と結びつくことを見せてくれる。

「弱さ」がすなわち「善」であることを保障しないだけに、私は韓国人が道徳的になるためには、まさにこのような自分たちの偽装の幕から取りはらうべきだと考える。そうした点で民族主義こそ近代韓国人が作り出した最も偉大な自己欺瞞のイデオロギーと言わざるを得ない。

慰安婦少女像を作って崇拝することほど、日本を「強い悪」に設定し、それに比例して自身を「弱い善」に設定する韓国民族主義の宗教的メカニズムをよく見せるものはないと私は判断する。

その点、私は韓国人に最も必要な哲学者はニーチェと見る。ニーチェはあえて「強さが善」という命題を強調した。ニーチェにとって「弱さは悪」だ。人生に敗北し、ひざまずいて涙を流す者にニーチェはむち打つ。自身の「弱さ」に同情するなと。

もちろんこのようなニーチェの思想は、いくらかファシズム的な力の崇拝と解釈できないわけではない。それは「強い悪」に帰結される論理的構造を持っている。しかし、「強さ」を「善」に結びつけるのか、でなければ「悪」に結びつけるつもりなのかは、やはり究極的には自身の道徳的意志にかかっているのだ。

私は韓国人が「弱い善良さ」という集団的な妄想から脱し、「強い善良さ」を追求するだけで、ヘル朝鮮の「小さい悪魔たちの世界」を克服して道徳的人間になることができると見る。

チェ・ボム/評論家
*この文は筆者のフェイスブックにのせられた文です。

ソース:ハフィントン・ポスト(韓国語) 「弱い善」という悪
http://www.huffingtonpost.kr/bum-choi/story_b_15673590.html?utm_hp_ref=korea

引用元: ・【韓国】 「弱い善」という悪~韓国人は自分たちの「弱さ」を「善良さ」と一致させてきた集団的妄想から脱する必要がある[03/29] [無断転載禁止]©2ch.net

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