1: もろ禿 ◆SHINE.1vOk もろ禿HINE! ★@\(^o^)/ 2015/09/11(金) 12:20:50.27 ID:???.net
<慰安婦生存者13人証言>病床で「日本が謝罪さえすれば私は安らかに目を閉じる」(1) | Joongang Ilbo | 中央日報
http://japanese.joins.com/article/611/205611.html?servcode=400&sectcode=420


「謝罪を受けなければいけない。それを聞いてこそ私も死ぬことができる」。

病室のベッドで横になっているおばあさんは、いくつかの言葉も全力を絞り出さなければいけないほど衰えていた。生存する慰安婦被害者のうち最高齢の金福得(キム・ボクドゥク)さん(97)は
健康が良くない。現在、慶尚南道統営(トンヨン)の高齢者専門病院に入院している。記者が近くで話す言葉も補聴器を着用してこそ何とか聞こえる。それでも「日本の謝罪を受けなければ
いけない」という言葉は力強く話した。

3人姉弟の一番上の金さんは、父の死後、12歳の時から家長の役割をした。慰安所に連れて行かれたのは22歳だった。網工場で働いている時に会った日本人が「お金をもっと稼げる工場に
就職させる」と話すと、その言葉を信じて故郷の統営を離れて釜山(プサン)に行った。

しかし工場の話は嘘だった。金さんは船に乗せられ、戦争中だった中国大連に連れて行かれた。そこで金さんは金福得という名前を奪われ、日本軍慰安婦「フミコ」と呼ばれた。死のうと思って
海に飛び込んだりもしたが、故郷の母のことを思うと死に切れなかった。3年間のつらい歳月を送った後、今度はフィリピンに連れて行かれた。このように地獄のような慰安婦生活に耐えながら7年が
過ぎた。

1945年、解放がきた。金さんは何とか帰途に就き、苦労して統営に戻った。しかし金さんを待つ故郷の生活は過酷なものだった。母に会うことを待ち望んでいたが、すでに母は亡くなっていた。
金さんは故郷で15歳も年上の男性の家に妾として入った。夫はアルコール中毒者だった。金さんは夫の暴行に苦しみ、2回の流産を経験した。金さんは自ら書いた一代記で「最初から期待して
設けた家庭ではなかったが、苦痛であり死ぬほど大変だった」と振り返っている。

数年後には戦争が始まった。今度は同族間の戦いだった。金さんは生きるためにパルチザンに食事の準備をし、避難しながら命をつないだ。

誰も守ってくれない生活だったが、金さんは決して隠れたり逃げたりはしなかった。94年に慰安婦被害者に登録した金さんはその後、「日本軍慰安婦問題解決のための定期水曜デモ」に参加し、
日本の蛮行を知らせ始めた。国内外の行事に積極的に参加し、被害証言も何度かした。

慰安婦問題を告発する活動だけでなく、他人を助けることにも熱情的だった。金さんは菜園で栽培した野菜を売って生涯貯めたお金と慰安婦被害者支援金を合わせて、2011年に地域の
学生に奨学金2000万ウォン(約200万円)を寄付した。2012年には慰安婦歴史館建設基金としてまた2000万ウォンを寄付した。

このように休むことなく活動してきた金さんだが、今は体の状態がかなり悪化し、身動きが自由でない。金さんの唯一の血縁だった弟は数年前に亡くなった。一緒に慰安婦被害者に登録して
支え合っていた統営地域の他の女性もみんな故人となった。人恋しくなるしかない。

金さんは誰かが訪ねてくれば必ず対話をするために「補聴器を付けてほしい」という。それでもコミュニケーションは容易でない。一日中ベッドで横になって過ごす金さんにとって少しでも慰めとなるのは
枕もとの花だ。金さんはもともと花が好きで自ら栽培し、病院に入院する時も花を持ってきたという。

金さんの夢は、もう一度女性に生まれれば母親になり、花のように美しい家庭を設けることだ。ただ、その前に必ず成し遂げるべき夢がある。日本政府の謝罪と慰安婦問題の完全な解決だ。
金さんは毎日、小さな声で「彼らが謝罪さえすれば私は安らかに目を閉じる」という言葉を繰り返している。

引用元: ・【中央日報】病床で「日本が謝罪さえすれば私は安らかに目を閉じる」 ―慰安婦生存者13人証言[9/11]

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