まぜるな!キケン!!速報

韓国、中国の危険なニュースのまとめ。 「マゼルナ、キケン」

    タグ:大韓帝国

    1: まぜるな!キケン!! 2019/10/07(月) 20:59:30.12 ID:CAP_USER
    米ワシントンにある大韓帝国公使館が補修工事代金の未納で現地業者に抵当権を設定されていたことが6日までに分かった。公使館を管理する韓国文化財庁傘下の国外所在文化財財団は今回の一件で米国の裁判所に民事訴訟を起こされ、関係者が米警察当局の取り調べを受けている。

     金栄珠(キム・ヨンジュ)国会議員(共に民主党)が入手した裁判所資料によると、国外所在文化財財団は在米僑胞のB氏が運営する現地業者に公使館の補修代金約12万1000ドル(約1290万円)を支払わなかったとして、今月3日に提訴された。訴状によると、同業者は昨年2月から今年5月にかけ、総額15万4500ドル相当の工事を完了したが、うち3万3000ドルしか受け取っていないと主張した。業者は公使館の建物に根抵当権を設定した。また、公使館の館長と幹部は工事代金の支払いに関する契約書の署名を偽造した疑いでワシントン警察当局の捜査を受けているという。

    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191007-00080003-chosun-kr
    10/7(月) 8:20配信 記事元 朝鮮日報

    引用元: ・【在米大韓帝国公使館】工事代金未納で抵当権設定[10/7]

    【これ以上の恥ってそうそうない【在米大韓帝国公使館】工事代金未納で抵当権設定[10/7] 】の続きを読む

    1: ダーさん@がんばらない ★ 2017/10/12(木) 21:47:22.55 ID:CAP_USER
    大韓帝国皇室の晩餐メニューはフォアグラとトリュフ

    大韓帝国宣言から120周年を迎えて、高宗(コジョン)皇帝が外国大使をもてなした洋風宴会が11日に再現された。フォアグラとトリュフなど、最高級食材で作られた本格的なフランス式ディナーだった。

    同日、ソウル中区(チュング)にあるウェスティン朝鮮(チョソン)ホテルで開かれた再現イベントで公開された皇室正式晩餐メニューは、12のコース料理だった。クネルコンソメ(肉団子を入れた透明なスープ)、キジの胸肉ブドウ料理、フォアグラパテ(肉、魚、野菜をすりおろして、中に入れたクリスピーパイ)、牛肉ヒレ・トリュフ焼き、ラムステーキ…。皇室を象徴するスモモの花柄の食器と献立も再現された。

    19世紀は、フランス式ディナーが世界的習慣だった。メニューもフランス語で書かれた。朝鮮人の使用人が大きなボウルに料理を盛って客に見せた後、個々の皿にサービングした。

    同日、朝鮮ホテルのユ・ジェドク・メニュー開発チーム調理場(50)は、「このようによく整備されたフランスのディナー文化が、大韓帝国時期に定着しているとは想像もできなかった」とし、「19世紀のフランスのレシピと国立故宮博物館に保管されているアイスクリームモールド、調理器具などを参考にしてメニューを開発した」と話した。

    近代化の流れに積極的に合流しようとした大韓帝国は1887年、日本を皮切りに米国、英国、ドイツ、ロシア、フランスなどと国家間条約を交わして、西洋文化を受け入れた。外交関係も各国の公使が国内に長期間滞在する形に変化した。儀典は西洋の格式と伝統礼節を折衝した方式だった。キャビア、鮭、コーヒーなど、国内で生産されない食材も輸入して使用した。

    大韓帝国皇室の洋風宴会料理の再現事業は、文化財庁、文化遺産国民信託、新世界(シンセゲ)朝鮮ホテル、培花(ペファ)女子大が今年5月に業務協約を交わして進めてきたプロジェクトだ。培花女子大伝統調理科のソン・ジョンウ教授チームの研究を基に、朝鮮ホテルの調理チームが調理法を開発した。

    ソン教授は、「大韓帝国は宮廷料理の最後の系譜であり、西洋料理を受け入れた食文化のターニングポイントになった時期だ」とし、「今回のプロジェクトはこれまでないがしろにされてきたこの時期の食文化研究に寄与した意義がある」と語った。

    ソース:東亜日報 October.12, 2017 09:27
    http://japanese.donga.com/List/3/08/27/1087802/1
    no title

    前スレ
    【韓国】大韓帝国皇室の晩餐メニューはフォアグラとトリュフ。メニュー開発チーム「フランスのレシピを参考にして開発した」[10/12]
    https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1507800019/

    引用元: ・【韓国】大韓帝国皇室の晩餐メニューはフォアグラとトリュフ。メニュー開発チーム「フランスのレシピを参考にして開発」[10/12]★2

    【【ウソの歴史がまたひとつ】「調理器具などを参考にして開発した」再現された大韓帝国皇室の晩餐メニュー】の続きを読む

    1: 蚯蚓φ ★@無断転載は禁止 2017/08/30(水) 00:22:30.56 ID:CAP_USER
    no title

    ▲「日本側韓日併合調書」の原本写真(右側)と大韓帝国純宗皇帝が頒布した調書原本

    [新韓国文化新聞=キム・ヨンジョ記者]1910年の今日(8月29日)は朝鮮王朝をたてて519年、大韓帝国を宣言して14年で国が滅び日本の植民地になった国辱日です。

    寺内統監と総理大臣イ・ワンヨンはすでに8月22日「併合条約」を結びましたが、私たち民族の抵抗を恐れて発表を後回しにし、条約締結を隠したまま元老大臣らを軟禁した後、8月29日に純宗に国を日本に渡すという詔勅を下すよう強制しました。

    公布された併合条約にはすべての統治権を日王に渡すという内容が書かれていました。しかし、この強制協約は無効であることを証明する文書が2010年に公開されました。

    ソウル大イ・テジン名誉教授が日本東京国立公文書館で入手して公開した「日本側韓日併合調書」写真資料によれば1910年8月29日、日本明治日王は韓日併合を公布した調書に国璽「天皇御璽」をおして、日王の実名の「ムツヒト(睦仁)」と署名があります。

    一方、同日の大韓帝国純宗皇帝が頒布した調書原本には国璽の代わりに行政的決裁だけ示す「勅命之宝」という御璽が捺印されています。また、純宗皇帝の実名のイ・チョク(李拓)の署名がなく、これは国際法上無効であることを示す根拠といいます。

    私たち民族は日帝のこの様な凶計にともなう韓日強制合併に屈せず、9年後、上海で大韓民国臨時政府をたてて命をかけた激しい抗日運動を繰り広げました。

    その中で1909年10月26日、安重根(アン・ジュングン)義士がハルビンで侵略の元凶、伊藤博文を処断し、また、1932年4月29日、上海で尹奉吉(ユン・ボンギル)義士が爆弾を投げて倭軍上海派遣軍司令官白川、上海の日本居留民団長、河端貞次などを処断することによって日帝の朝鮮侵略を全世界に知らせました。

    キム・ヨンジョ記者

    ソース:新韓国文化新聞(韓国語) 今日は国恥日、しかし、この日韓日強制協約は無効
    http://www.koya-culture.com/news/article.html?no=109298

    引用元: ・【韓国】 今日は国を失った国恥日、しかし、この日の韓日強制協約は無効[08/29] [無断転載禁止]©2ch.net

    【【そうだったらいいのにな】「大韓帝国皇帝は行政的決裁の御璽を捺印、だから韓日併合は無効」新韓国文化新聞(韓国語)】の続きを読む

    1: 蚯蚓φ ★@\(^o^)/ 2015/12/24(木) 23:58:24.20 ID:CAP_USER.net
    no title

    ▲純宗皇帝の銅像鳥瞰図。大礼服姿の純宗が橋の上に立っている。(写真=大邱中区)

    大韓帝国の最後の皇帝である純宗(1874~1926)は「悲運の皇帝」だ。即位直
    後の1907年、日本の強圧によって韓日新協約を締結する。これに伴い、日本人を韓国
    の官僚として任用できるようになり、法令制定などの権限を、事実上、統監に渡した。軍
    隊も解散した。1910年8月29日の韓日併合条約(庚戌国恥、韓国併合ニ関スル条約)
    で、結局は日本の植民地になった。皇帝は悲痛な毎日を送りながら昌徳宮(チャンドック
    ン)でその生涯を閉じた。高宗(コジョン)と明成(ミョンソン)皇后の次男だ。

    純宗を賛える銅像が大邱(テグ)につくられる。大邱市中区(チュング)は22日、「純
    宗皇帝オガギル象徴造形物」のデザイン設計を終えたと明らかにした。オガギルとは国王
    などが通った御幸道のことだ。

    実施設計を経て来年2月から製作に入り、4カ月後の6月に達城洞(タルソンドン)の
    達城公園入口に設置される予定だ。純宗の銅像がつくられるのは初めてのこと。

    銅像は国家の重要な儀式の時に着用する大礼服姿の純宗皇帝がアーチ型の橋の上に立っ
    ている姿だ。銅像は高さ2.5メートルで、青銅製。ソウルの彫刻家ヤン・ジャンウォン
    氏(48)の作品だ。ヤン氏は「皇帝の権威をどうしたらうまく表せるか悩んでいたとこ
    ろ大礼服が思い浮かんだ」とし「橋の上に銅像を設置するのは『民の橋になりたい』とい
    う皇帝の気持ちが込められている」と説明した。

    なぜ大邱に純宗の銅像がつくられることになったのか。純宗皇帝の訪問を記念しようと
    するものだが、単に純宗を追慕するだけがその趣旨ではない。日帝に侵奪された屈辱の歴
    史を再確認できるようにとの意味も込められている。暗い歴史から教訓を得ようとするダ
    ークツーリズム(Dark Tourism)の名所にしたい考えだ。

    純宗皇帝が大邱を訪れたのは国を奪われる直前の1909年だ。同年1月7日、民政視
    察のために統監だった伊藤博文とともに大邱を訪問した。民の暮らしを確認するという純
    粋な趣旨の行事ではなかった。1905年乙巳勒約(第二次日韓協約)、1907年国債補
    償運動に続いて軍隊を解散したことで民心が荒れると日帝がこれを鎮めるために純宗皇帝
    を前に出した。

    国王の乗った御輿の「オガ」が通り過ぎたところは大邱(テグ)駅~北城路(プクソン
    ノ)~寿昌洞(スチャンドン)~達城公園だった。当時慶尚北道(キョンサンブクト)観
    察使だった朴重陽(パク・チュンヤン)はオガの通り道に銀色の砂を敷いてその上を布で
    覆った。達城公園の進入路を拡張し、冬季の枯れた木には造花をつけて春のようにした。

    中区はこのうち北城路から達城公園までの1キロをオガギルとして整備している。中区
    はこのオガギルを「救国の道」と名付けて「大邱の近代路地ツアー」コースとして活用す
    る方針だ。ユン・スンヨン区庁長は「近代史を学べるよい教育の場になると信じている」
    と話した。

    ソース:中央日報日本語版<「日帝の侵奪史を忘れずにいよう」…韓国・大邱市、
    純宗御幸道を造成>
    http://japanese.joins.com/article/023/210023.html

    引用元: ・【韓国】 「日帝の侵奪史を忘れずにいよう」~大邱市、大韓帝国の最後の皇帝・純宗御幸道を造成[12/24]

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    1: ジャン・ポール◆Vkp7zYl5.c 2015/12/17(木)03:52:02 ID:LTV
    前略:開放70周年の機会に旧韓末の歴史を学ぶことにしたが、得た結論は国権を守る機会と情熱、
    才能があったということだ。朝鮮の陽明学者に関する本を頂いた。日本で明治維新に影響を与えた一
    派で、そうした陽明学派が半島にもいたことが興味深かった。

     陽明学の門外漢なので深い意味を計り知ることはできない。ただ虚無だった。命をささげた日本の
    陽明学派も「動機の純粋さ」を重視したのだろう。しかし、彼らは動機と同じくらい重要な目指すべ
    き所を持ち、死を通じて成し遂げた。我が国の陽明学派は何のために死んだのだろうか。彼ら以前に
    もこの国には喜んで命をささげた数多くの実践家がいた。ところが、両国の命の価値はなぜこれほど
    違うのか。勇気と情熱は同じなのに、我が国はなぜ滅んだのだろうか。識見不足のため一つを知ると
    十の疑問がわいてくる。

     歴史書を読めば読むほど、とにかく外国勢力のせいにする主張に興味をなくした。江華島条約から
    国権喪失まで我々には30年近い時間があった。歴史にも三振法が適用される。甲申政変・甲午改革・
    光武改革は貴重なチャンスだった。歴史書を読むほどに興味をなくす主張がもう一つある。朝鮮は国
    力が枯渇し、すでに滅びた国だったという宿命論だ。我が国を長年見てきた当時の西洋人たちは、一
    様に優れた才能、熱い教育熱、豊富な資源を高く評価していた。まだ強くはなかったが、強くなるこ
    とができる国だった。その国で黄ヒョンはなぜ「人間世界の識者役は難しい」という絶命詩を残して
    死んだのか。

     本当に識者役が難しかった時代だったようだ。開花を夢見て政変を主導した当代の天才・金玉均
    (キム・オッキュン)は殺害された後、四肢を切られ全国でさらされた。改革を主導した朝鮮最後の
    領議政(議政府の最高官職)・金弘集(キム・ホンジプ)は失脚後、群衆の前に投げ出されて他殺さ
    れた。外国勢力の暴挙だったとしたら、もっと虚無的でなかっただろう。胸が痛むのは、数多くの人
    材が改革を試みながら、仕えていた王により最期を迎えたことだった。王は改革により王権を制限さ
    れた時、改革全体を放り出した。民族の情熱や才能も、天が与えた貴重な機会も絶対王権の前に30年
    間もがいたあげく、終わりを迎えて消え去った。無能な政治はこのように恐ろしいものだ。

     情熱と希望が枯渇した国には皇帝だけが残った。国権をよこせと要求する日本に対し、皇帝は「大
    臣と国民の意向を問う」と後に下がった。伊藤博文は「不可解なことこの上ない」と皇帝を嘲笑(ちょ
    うしょう)した。「貴国は憲法政治でもなく、万機すべてを陛下が決定する、いわゆる専制君主制で
    はないのですか?」。この幻のような権力を守るために忠臣や改革を捨てたのか。

     旧韓末のことを語ると、「今は国力が違う」と人々は言う。それも事実だ。だが当時の我が国は国
    力が足りなくて滅びたのだろうか、それとも国力を育てる改革ができなくて滅びたのだろうか。考え
    方はそれぞれだが、民族の才能と情熱、改革の機会をまとめて国を引っ張っていくことができなかっ
    た政治のせいで滅びたのは明らかだろう。100年後の子孫たちが書き記す歴史に、今の私たちはどのよ
    うな姿で書かれるのだろうか。歴史は我々の胸を痛くした分だけ教訓を与えてくれる。今年それを悟っ
    た。

    鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員

    朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/12/16/2015121601154.html

    引用元: ・【朝鮮日報コラム】大韓帝国はなぜ滅びたのか:鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員[12/16]

    【滅ぶべくして滅んだ【朝鮮日報コラム】大韓帝国はなぜ滅びたのか:鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員[12/16]】の続きを読む

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