1: まぜるな!キケン!! 2019/04/19(金) 20:14:18.06 ID:CAP_USER
[ユ・ジュヨルの東北ア談説-36] 「桜」には罪がない

四季がはっきりとした韓中日三国で、春を知らせる伝令使は断然、春の花だ。春の花には、ケナリ、ツツジ、サンシュユ、モクレンなどがある。中国ではケナリを迎春花と歌いながら、春の伝令使として迎える。我が国と日本では、桜の花ではないかと思う。

桜は冬を過ごした枯れた枝から、人の魂をすっと抜き取るほど薄ピンクに群れを成して咲く。桜がない春は考えにくい。昨日まではつぼみだったのに、起床したら咲き乱れている桜の花は「ポップコーンのように咲く」という言葉もある。

桜花(※ポッ・コッ)は咲く様子からその名を得たという。語源の専門家は、「脱ぐ(※ポッヌン)花」(脱花)から意味を見つける。ムクゲが100日間、咲き続いているのに比べて、桜はたった15日以内ですべて咲いてすべて散るためだ。日本の場合も「咲く」という意味の「サク」から「サクラ」になったという。(省略…)

魅力的で華麗に咲いた桜を見ながら感じたのは、桜の花が華やかすぎて、儒教精神の強い中国や韓国では大して歓迎されなかったのではないかという気もした。春の花の中でも梅は違う。忠孝を第一とする東洋社会で、寒風がまだ冷めない早春にも雪まで覆って咲く一房の純白の梅は礼賛された。昔の先人たちの梅についての詩は多いが、桜の詩があまり見られないのも、そのような理由ではないか。

日本でも、韓半島の渡来文化が流行していた平安時代の貴族たちは、梅をより重宝にしていた。 5月1日即位するナルヒト日王と共に使用される新しい年号「令和」は、梅を賛美する萬葉集の歌から取った。「(梅が咲いて)良い季節の初春、空気も澄んで風も和む(初春令月氣淑風和)」という歌だ。萬葉集は百済の影響が大きい日本の古代詩詩集だ。

9世紀半ば、悲運の貴族だった管原道眞が謀陥にかかって遠く九州に追放された。彼は、庭に咲いた梅を二度と見られないことを何よりも残念がった。道眞は流配の道を行き、「東風が吹いたら香気を送ってくれ、主人がなくても春を忘れないでほしい」と頼んだ。道眞が九州に到着すると、驚いたことに自分が愛した梅が先に飛んで来たではないか。道眞の「飛梅」伝説が九州の大宰府天満宮に残っている。

日本が大陸との関係が断絶されると、国風という日本固有の文化を発展させて、梅よりも桜が大衆的人気を得るようになった。日本最高の桜の名所は、奈良県の中心にある吉野だ。吉野に行けば 「一目千本」という言葉がある。一目で千本の満開の桜の木を見るという意味だ。吉野には桜の木を1000昔から植えて、今では30000本の桜の木が層を作って咲いている。

7世紀半ば天智日王が弟の天武を後継者にしたが、王位継承者を息子に変えたかった。賢い天武は自ら皇太子から退いて、吉野の寺に出家した。天智が死ぬと天武は吉野豪族の支援を受けて、壬申の乱を起こして甥を追い払う。日王になった天武は困難な時代に住んでいた吉野に桜が満開した夢を見て、桜の木を神木として植えたと伝える。

日本で桜を楽しむ文化はエド(江戸、現在の東京)時代に絶頂を迎える。長い間、平和に浸って華やかさを追求する町人文化が流行していた江戸時代に、浮世絵と共に桜の人気は爆発した。吉野の若木の桜が江戸の園芸村だった染井の樹木園で特別交配されて、培養された新種の桜「ソメイ ヨシノ」が全国に普及した。

東京の大使館に勤務していた時だった。春になると、日本の知人から桜を楽しむハナミ(花見)会に招待された。花見会に行ったら一抱えの桜の木の下にシートを広げて敷いて、一団となって集まって座って、弁当と一緒にビールを飲んでいた。近くの桜の木ごとに、人がびっしりで空席がなかった。知人によると、穴場スポットを押さえるために同僚が朝から位置の良い木の下にシートを敷いておいて待っていたという。

桜は日本の軍国主義に悪用された。明治維新以降、大陸侵略の先頭に立った軍国主義者たちは、華やかに咲いて瞬く間に散る桜の属性が軍人(サムライ)の精神に合致すると考えた。桜の木は、軍国主義者たちの政訓木になって、軍人が駐留する所には桜の木を植え軍人精神を涵養させた。鎮海の桜が有名なのも、鎮海が日本連合艦隊の軍港だったからだ。(つづく)

ソース ワールドコリアンニュース
http://www.worldkorean.net/news/articleView.html?idxno=34049

引用元: ・【韓国】 「桜」には罪がない…桜は済州原産で、日帝が桜のイメージを政治に悪用しただけだ。[04/19]

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