1: ねこ名無し ★@無断転載は禁止 2017/02/21(火) 10:21:31.21 ID:CAP_USER
〈1988年ソウル五輪の成功は、韓国の名を一躍、世界に押し上げた。名古屋との一騎打ちとなった招致合戦に尽力した〉
ソウルで五輪を開くことを思い立ったのは朴正煕(パク・チョンヒ)大統領でした。僕は青瓦台の秘書官をしていましたから、朴大統領の「立派な祖国を創りたい」という強い思いも聞いていましたね。
朴大統領から崔圭夏(チェ・ギュハ)・国務総理に指示が出てスポーツ政策協議会ができ、10人ほどの委員が参加しました。当時、僕は大韓テコンドー協会会長で、世界テコンドー連盟を創り会長をしていました。大韓体育会副会長でもあったので一員になりました。
メンバーには悲観的なことをいう人もいました。韓国はまだ発展途上で、ソウルといっても世界に名前も知られていない。経済が発展している名古屋にはかなわない、まして名古屋はIOC(国際オリンピック委員会)副会長の清川正二さんの故郷。立候補は時期尚早だという人もいましたね。
でも、五輪に成功すれば韓国や、韓国の人たちが勇気づけられると確信していました。
〈だが、招致運動を揺るがす事態が起きた。1979年10月26日、大韓民国中央情報部(KCIA)部長、金載圭(キム・ジェギュ)による朴大統領暗殺である〉
僕は当時、世界テコンドー選手権のため、西ドイツのシュツットガルトにいました。帰国すると大変な混乱で、招致もなくなるかもしれないと思いましたよ。
後任に全斗煥(チョン・ドファン)大統領が就任して混乱が収まると、活動が再開されましたが、次の大統領になる盧泰愚(ノ・テウ)政務長官が尽力されました。ただ、1980年12月にIOCに立候補の意思表示をした後も、関係者はどうしていいかわからない状況でした。
〈そんな状況から1981年9月30日、西ドイツのバーデンバーデンで開かれたIOC総会での逆転劇につながっていく。そこに何があったのか〉
簡単にいえば、「韓国」対「名古屋」だったんです。われわれは最後のつめに政府官僚や外交官、スポーツ選手はもちろん、財界人が多数、バーデンバーデンに乗り込みました。
現代(ヒョンデ)グループの鄭周永(チョン・ジュヨン)会長、大韓航空の趙重勲(チョ・ジュンフン)社長、大宇グループの金宇中(キム・ウジュン)会長、東亜グループの崔元碩(チェ・ウォンソク)会長らが現地で活動しました。後にIOC委員に就任する三星(サムスン)グループの李健煕(イ・ゴニ)副会長もバックアップしてくれて、いま、問題視される韓国の財閥を挙げた支援でした。
名古屋は県議会議長とか商工会議所会頭などがコミッションの中心で、正直いって国際的ではないなと思いましたよ。英語もあまりできなかったし…。
それでも名古屋の方が知名度が高いと、最後までロビー活動を展開しました。ソウルには北朝鮮という不安材料がありました。常にテロリズムの緊張があり、実際、バーデンバーデンに入る前も北朝鮮の分子によるデモやテロの情報があったんです。北にシンパシーを持つ東欧の国々は反ソウルでした。
プレゼンテーション・ルームを設け、数多くの写真を飾ったほか、韓国やソウルに関した本を配りました。5人の大韓航空のキャビンアテンダントと3人のミス・コリアが説明にあたり、酒や人参(にんじん)紅茶を振る舞いました。名古屋も部屋を用意しましたが、われわれよりも貧相で、訪れるIOC委員や国際競技団体の関係者ははるかにソウルが上でした。
この勝利で、初めて日本へのコンプレックスから抜け出していく糸口をつかんだと思いましたね。(聞き手 佐野慎輔)
http://www.sankei.com/life/news/170221/lif1702210033-n1.html
http://www.sankei.com/life/news/170221/lif1702210033-n2.html
http://www.sankei.com/life/news/170221/lif1702210033-n3.html

韓国の朴正煕大統領(左、就任前)とコリンズ元米陸軍参謀総長(右)との会談に同席した金雲龍氏 =1961年5月(本人提供)
ソウルで五輪を開くことを思い立ったのは朴正煕(パク・チョンヒ)大統領でした。僕は青瓦台の秘書官をしていましたから、朴大統領の「立派な祖国を創りたい」という強い思いも聞いていましたね。
朴大統領から崔圭夏(チェ・ギュハ)・国務総理に指示が出てスポーツ政策協議会ができ、10人ほどの委員が参加しました。当時、僕は大韓テコンドー協会会長で、世界テコンドー連盟を創り会長をしていました。大韓体育会副会長でもあったので一員になりました。
メンバーには悲観的なことをいう人もいました。韓国はまだ発展途上で、ソウルといっても世界に名前も知られていない。経済が発展している名古屋にはかなわない、まして名古屋はIOC(国際オリンピック委員会)副会長の清川正二さんの故郷。立候補は時期尚早だという人もいましたね。
でも、五輪に成功すれば韓国や、韓国の人たちが勇気づけられると確信していました。
〈だが、招致運動を揺るがす事態が起きた。1979年10月26日、大韓民国中央情報部(KCIA)部長、金載圭(キム・ジェギュ)による朴大統領暗殺である〉
僕は当時、世界テコンドー選手権のため、西ドイツのシュツットガルトにいました。帰国すると大変な混乱で、招致もなくなるかもしれないと思いましたよ。
後任に全斗煥(チョン・ドファン)大統領が就任して混乱が収まると、活動が再開されましたが、次の大統領になる盧泰愚(ノ・テウ)政務長官が尽力されました。ただ、1980年12月にIOCに立候補の意思表示をした後も、関係者はどうしていいかわからない状況でした。
〈そんな状況から1981年9月30日、西ドイツのバーデンバーデンで開かれたIOC総会での逆転劇につながっていく。そこに何があったのか〉
簡単にいえば、「韓国」対「名古屋」だったんです。われわれは最後のつめに政府官僚や外交官、スポーツ選手はもちろん、財界人が多数、バーデンバーデンに乗り込みました。
現代(ヒョンデ)グループの鄭周永(チョン・ジュヨン)会長、大韓航空の趙重勲(チョ・ジュンフン)社長、大宇グループの金宇中(キム・ウジュン)会長、東亜グループの崔元碩(チェ・ウォンソク)会長らが現地で活動しました。後にIOC委員に就任する三星(サムスン)グループの李健煕(イ・ゴニ)副会長もバックアップしてくれて、いま、問題視される韓国の財閥を挙げた支援でした。
名古屋は県議会議長とか商工会議所会頭などがコミッションの中心で、正直いって国際的ではないなと思いましたよ。英語もあまりできなかったし…。
それでも名古屋の方が知名度が高いと、最後までロビー活動を展開しました。ソウルには北朝鮮という不安材料がありました。常にテロリズムの緊張があり、実際、バーデンバーデンに入る前も北朝鮮の分子によるデモやテロの情報があったんです。北にシンパシーを持つ東欧の国々は反ソウルでした。
プレゼンテーション・ルームを設け、数多くの写真を飾ったほか、韓国やソウルに関した本を配りました。5人の大韓航空のキャビンアテンダントと3人のミス・コリアが説明にあたり、酒や人参(にんじん)紅茶を振る舞いました。名古屋も部屋を用意しましたが、われわれよりも貧相で、訪れるIOC委員や国際競技団体の関係者ははるかにソウルが上でした。
この勝利で、初めて日本へのコンプレックスから抜け出していく糸口をつかんだと思いましたね。(聞き手 佐野慎輔)
http://www.sankei.com/life/news/170221/lif1702210033-n1.html
http://www.sankei.com/life/news/170221/lif1702210033-n2.html
http://www.sankei.com/life/news/170221/lif1702210033-n3.html

韓国の朴正煕大統領(左、就任前)とコリンズ元米陸軍参謀総長(右)との会談に同席した金雲龍氏 =1961年5月(本人提供)
引用元: ・【韓国】日本へのコンプレックス消したソウル五輪 元IOC副会長・金雲龍[2/21] [無断転載禁止]©2ch.net
【【悪化してね?】金雲龍・元IOC副会長「ソウル五輪で日本へのコンプレックス消した」】の続きを読む